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動物物語 犬編 その4 後編 [内弟子日記]

ビドッション対ガンジャ(ラウンド2 続き)

普段何も考えていない単細胞にしか見えないガンジャもやはり耳を噛みちぎられた事だけはしっかり覚えていて、いつかその借りを返す為に虎視眈々と機会を伺っていたのです。しかも私達が出かけるまではおとなしくしておいて油断させるという小芝居をも駆使した戦術まで使っています。
 一方ビドッションもさすがです。ガンジャに不意を衝かれた上に、私が掴んでいる鎖に繋がれていて余り自由が利かないのにも関わらず、瞬時に反応して優位な体勢をしっかりキープしていました。
 不意を衝かれた、、、いや私が勝手にそう考えているだけかもしれません。もしかすると、ビドッションの方もガンジャが庭に放されたのをちゃんと見ていてその時からガンジャの報復に対して十分警戒し二匹の間には見えない駆け引きによる緊張が既にあったのかも知れません。つまり何も分かっていなかったのは私だけだったのかも知れないのです。
 この二度目のバトルを招いたのは、そもそも私が散歩の日課を横着したせいですが、その横着心はこの二匹の犬達に対する私の侮りから生まれたものでした。人間は自らの知覚と解明された科学の情報の範囲の中だけでしか知性を育む事はできません。だから見聞きしたもの体験したものをそれによって生まれた価値基準のなかだけで判断しようとしても、それらは動物界、自然界、そして宇宙と果てしなく拡がる空間にある真実の理(ことわり)の中にあっては、微々たるものでしかないという認識と謙虚さを常に持たなければならないという事を反省させられました。
 ここまで壮大な反省になったのは、後で家に帰って落ち着いたあとに振り返った為で、当然その現場ではそんな余裕などなく犬達が大怪我をしては大変だと思い、それはもうアドレナリン全開で止めに入りました。
がしかしそう簡単にはいきません。筋トレしてる訳でもないのに見事な筋肉郡を帯びている二匹の体躯は、闘う本能を持ち合わせた動物としてデザインされたものです。どちらも傷つく事を省みずに物凄い勢いで噛み付きあおうとするガチンコファイトを展開しています。お洒落アイテムのようにバッグの中に入れて歩ける人形のようなワンちゃん同士のチワワ喧嘩とは訳が違います。ある意味先生との組み手よりタフでした。
 二匹の犬達と一人のアジア人の男がフランスの田舎の畑の畦道で必死に取っ組み合っている光景はシュールに映ったのでしょうか、一台の軽トラックが通りかかった時、運転手は、「なんじゃありゃ!」という顔をしたまま通り過ぎていきました。「くっそー、手伝ってくれたっていいじゃん!」と全く関係のない見ず知らずの農民を心の中で非難してしまうほど私もテンパっていました。
 しかし、彼らの戦法は機を見つけたら一気呵成に攻め立てようとするもので持久戦には向いていないようです。次第に噛み付き合ったまま膠着してきました。結局最後はどちらからともなく離れ犬達も私も、精根尽き果てへとへとになりながらみんなで仲良く?無言のまま一緒に帰ったのでした。

あー 疲れた。


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動物物語 犬編 その4 前編 [内弟子日記]

ビドッションVSガンジャ(ラウンド2) 

ビドッションによるガンジャ襲撃事件以降、放し飼いできなくなった犬達は毎日退屈そうにしながら暮らしていました。そんな犬達の散歩が私の日課の一つに加わりました。広い畑沿いの畦道が散歩コースで一周4、50分かかります。もちろん二匹を一緒に連れていく訳にはいきません。
そんなある日、私の横着癖が原因でまた事件が起きてしまったのです。一周4、50分の散歩コースは私にとって一回なら程よいのですが、それを毎日二回も繰り返すのはちょっと面倒臭いと思っていました。そこでビドッションを散歩に連れ出している間、ガンジャを庭の中で自由にしてやればガンジャの散歩替わりになるだろうという自分でもうっとりする程の素敵なアイデアを思いついたのです。
ビドッションを外に出して門を閉め、ガンジャを庭に放してやりました。ガンジャは特に興奮した様子もなく庭の中をゆっくり歩き回り始め、それを見届けた私は安心して門を閉めビドッションを連れて外に出かけました。
ところがです。「うまくいったぞ」と思いながら軽快に百メートルくらい歩いた頃、全く予想していなかった光景が私の目に飛び込んできたのです。な、なんとガンジャがこっちに向かって走ってくるではありませんか!実は入口の門は、格子状になっているのですが一部分だけ装飾として施された図柄に沿って隙間があり、そこから抜け出す事は確かに可能です。しかしそれはビドッションのように利口な犬が少しずつその場の状況に適応しながら知恵をつけて出来るような難易度のもので、まさかガンジャにそんな芸当が出来るはずもないだろうと高を括っていたのです。普段のガンジャは、餌の時間に躾ようとしても興奮して全く言うことを聞く様子がなく「何?お座り?知るか!早くめしくれ、めしーっ!」と暴れまくる、そんな可愛らしい犬なのです。私はガンジャには失礼ですが、門の隙間を見て抜け出せると判断できる程の学習能力はないと勝手に思い込んでいたのです。
だからガンジャが向こうから走って来るのを見た時は信じがたい光景に思わず二度見してしまいましたが、それは紛れもなくガンジャでした。
 あっけにとられているとあっという間にガンジャは私達に追いつきビドッションめがけて飛び掛かったのです。今度はガンジャのビドッションに対する報復攻撃です。

つづく

いい加減にしろ! お前達!


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動物物語 犬編 その3 [内弟子日記]

ビドッション VS ガンジャ(ラウンド1)

ジェイカが天国に旅立ちしばらく経ったある日、先生がまた知り合いから犬をもらってきました。ガンジャという名前のオス犬です。外見はビドッションより大きく逞しい犬で愛嬌はあるのですが、あまり利口ではなく放し飼いにすると一日でいなくなってしまいそうだったので庭の隅に繋ぐ事にしました。私にとって犬との思いがけない新たな出会いです。
 「よろしく!」と軽く声をかけ、ガンジャの元を離れ辺りに誰もいなくなったとき、事件は起こりました。ビドッションが、突然ガンジャめがけて猛突進したのです。ビドッションは前述したように人間以外の動物に対してかなり嫉妬深い性格です。恐らくガンジャがやってきた時、庭の隅に繋がれるまでの様子を遠くで一部始終眺めながら、「おのれー、新参者めがー」と嫉妬心を全開にしていたのでしょう。一方のガンジャは、体格はいいのですが性格は無邪気でおっとりしていて好戦的なビドッションとはその点で正反対です。戦闘モードに入っているビドッションのテンションを察知するのが一瞬遅れたのかも知れません。ビドッションが飛び掛かった時には完全にガンジャは劣勢でした。そして奇襲をかけたビドッションはそのまま一気に襲い掛かり、なんとガンジャの耳を噛みちぎってしまったのです。(正に犬版、マイクタイソンです。)
 新入りへの洗礼を浴びせたビドッションは満足げでしたが、それ以来彼も繋がざるを得なくなったのは言うまでもありません。彼は自らの行いによって自由を失ってしまいました。
 さて、耳をちぎられたガンジャを獣医に連れて行くことになりました。右も左も分からない所に連れて来られ、おまけに凶暴な犬にいきなり襲われ耳を噛みちぎられてしまったガンジャ。自分の身に降り懸かった災難に納得できず、「もう訳わかんねぇーよ!」と言ワンばかりに暴れます。私は、同情しつつも暴れるガンジャを抱きかかえ車に乗りました。動物病院に着き治療してもらおうとするのですが、暴れてなかなかはかどりません。仕方ないので獣医は、ガンジャに全身麻酔を注射しました。するとガンジャは舌をペロンと出し、たちまち脱力して診察台に寝そべったのです。
 そして、傷口を縫合し一通り治療が終わったので、家に帰ろうとまだ麻酔の効いているガンジャを再び抱き抱えました。するとガンジャが見違える程、重くなっていてびっくりしました。これは一体どういう事でしょう。病院へ連れて行くときのガンジャはよく暴れて力みがあった事で、私には返ってガンジャの重みをそれ程感じる事なく比較的楽に抱きかかえる事が出来たのに対して、麻酔を討たれ全身の力が抜け完全な脱力状態にあったガンジャは私に全体重を預ける形になりガンジャの重みが最大限に私にのしかかってきたという事だと思います。
 この瞬間、私は普段時津先生がとてもリラックスしているように見えるのに、とてつもない力が出る訳が少し解ったような気がして、その後力を出すという事と抜くという事の意味を深く考えさせられることになりました。身体能力の可能性を追求すると、身体についてまだまだ知らないことばかりです。いつどこにどんなヒントがあるか分からないものだと思い知らされました。

ガンジャ、お大事に!そして、ありがとう!


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動物物語 犬編 その2 [内弟子日記]

ビドッション

 ビドッションとはジェイカと一緒に飼っていたもう一匹の犬です。
ある日、私のビザの申請の事で村役場に行く為に先生と二人で車に乗って出かけました。前にも話しましたが、先生宅から村役場のある中心地までは歩くと1時間近くかかります。ちょうどその中心地に着くと、見覚えのある犬がカフェの前を歩いていました。
「先生、あの犬ビドッションに似てますね。」
「うん、似てるね。」


暫しの沈黙


「てゆーかビドッションですね。」
「うん、そうだね。」


暫しの沈黙


「ってビドッショーン!お前かよっ!」

と軽くビドッションにツッコミをいれて呼び寄せ車に乗せました。彼はこうやって時々私達の知らない間に門の隙間から抜け出し、一人「さすらいの遠足」に出かけては家族のみんなを心配させていました。
 このビドッションも愛嬌のある可愛い犬でした。私は犬の種類について詳しくないのですが、チベットの血統の犬だと聞きました。人間にとても従順で遠くにいても名前を呼べば駆け寄ってくるし、知らない間にいなくなっても必ず帰ってくるので、庭でも繋ぎ留めず、ジェイカと仲良く平和に暮らしていました。この日も歩けば1時間近くかかる村の中心地まで一人でぶらっとやってきていたのです。私達が見つけた時は、まるで馴染みのカフェでお茶でもしそうな感じでその場によく溶け込んでいました。
 風の吹くまま気の向くまま、まるで寅さんのように生きていたそんなビドッションでしたが、その後彼の持つもう一つの性格が仇となり自由を失ってしまう事になります。
 もう一つの性格とは、人間に物凄く従順である半面、人一倍、いや犬一倍嫉妬深いというものでした。体はそれ程大きくありませんが喧嘩にはめっぽう強く、その事と相俟って他の動物に対してとても凶暴になるのです。以前、先生の奥さんと散歩中に野良犬が襲い掛かってきたのを返り討ちにしたという武勇伝があります。が、その凶暴性のほとんどは家族にとっては感心出来ない結果を招く事の方が多く、少し目を離すと野良猫や野生の狐などを噛み殺したりしていました。農村なので周りには野生の動物ばかりでなく、家畜として飼っている鶏や羊等もいます。いつどこで何をやらかすか分からないビドッションをこのまま放っておくとそのうち人様に迷惑をかける事になってしまわないだろうかと案じ始めていたある日、事件は起こりました!

つづく

あー、ビドッショ~ン!

お前ってやつは、、、


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動物物語 犬編 その1 [内弟子日記]

ジェイカ 
 
 時津先生の家での生活では、動物との思い出もあります。内弟子生活が始まる頃の話で少し触れましたが、先生の家には犬が二匹いて名前をジェイカとビドッションといいました。ジェイカはメス犬で、確かフランダースの犬に出てくるパトラッシュのような格好いい犬でした。若い時ペット用に売る為の子供を何匹も産まされたそうで、お役御免となった後知り合いの伝で先生が引き取ったのだそうです。私が会った時は既に年老いて弱わり、足を引きずりながら歩いていました。
 ビドッションの方は元気なのでよく一緒に散歩に出かけましたが、そんな時ジェイカはいつもお留守番でした。いつものようにビドッションと散歩に行こうとすると「行ってらっしゃい」という感じで見送ってくれるジェイカが、ある日一緒について来ようとしたことがありました。散歩といっても広い畑の畦道の結構長い距離を歩くので足を引きずって歩くジェイカを連れていくのはやっぱり無理です。変だなと思いながらジェイカには残ってもらいいつものように出かけました。そして帰えってきた時、家の近くの畑の水路に落ちて動けなくなっているジェイカを見つけました。「これまで一度もこんなことはなかったのに一体どうしたんだろう?」と思いながらジェイカを抱きかかえ家まで戻りました。
 その夜、餌をやりにジェイカのいる小屋までいくとジェイカの姿が見当たりません。いつもなら「ジェイカ!」と呼べば餌の時間だと思って喜んで近付いてくるはずなのですが、その夜は何度呼んでも近付いて来ないのです。「また外へ出たのだろうか?」と心配になりながら庭を探し回っていると、納屋の裏にある月桂樹の下で静かに横たわっているジェイカを見つけました。私の呼ぶ声を聞いていながら近づいて来ようとせず、月桂樹の木の下に静かに横たわっていたジェイカ。そんなジェイカを見つけた時、私の目にはジェイカの姿がなんとも言えない美しさと神々しさで彩られているように映り、今でもはっきりとその光景が目に焼き付いています。
 餌を与えても食べようともしません。いつもと、つい昨日までと、明らかに様子が違います。このことを先生に報告すると、獣医に連絡を取り診てもらうことになりました。獣医さんの話では、ジェイカの衰弱ぶりは素人目には余り分からないが、かなり苦しんでいるという事でした。そこで、ついに臨終させてあげることになったのです。
 ジェイカが死ぬ。まだそのことが実感できないまま、「あの日、散歩について来ようとしたジェイカは僕に何か伝えようとしたのかな?」「動物の気持ちを理解できたらいいのになあ。」なんとなくそんな事を思っていました。
 次の日、ジェイカの好物の生肉に錠剤を混ぜ、先生の手でジェイカの口に与え、その夜ジェイカは安らかに眠り帰らぬ犬となりました。供養として先生の家の庭の片隅に穴を掘りジェイカを埋め、冥福を祈りました。
ジェイカよ!お疲れ様でした。
合掌


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ザ・芝刈り 後編 [内弟子日記]

 ベストキッドという空手を題材にした映画がありました。映画の中で空手の使い手であるミヤギさんが、主人公のダニエルさんにワックスがけやペンキ塗りをやらせる事でいつの間にか空手の技を身につけさせているというシーンがあります。このような話しは映画向きでもあり面白いと思ったのですが、実際日常の中でもワックスがけやペンキ塗りに限らず様々な所作が武的な身体使いを求める上で参考になることがあります。
 私の体験では内弟子時代に任されていた芝刈りがその一つでした。武的な身体使いとの繋がりという点で、この芝を刈る作業から私が考えさせられた事は、「一体感覚を掴む」という事でした。
 芝生の生えているその庭は、傷つけてはいけない植物や木があったり地面が凸凹していたりと単調ではありません。少し大袈裟かも知れませんが、そのような状態の庭をきれいに刈れるという事は、丹田から手まで、更には手から芝刈り機までがつながり一体化した状態で機械を操作する事ができた結果だと言えます。
 芝刈り機は確かに手で持つのですが先生からの助言は「丹田を使え、丹田から動け」というものでした。丹田から芝刈り機までが一体化する事であたかも芝刈り機が身体の一部となり芝生の状態を感じられるような感覚を掴む事によって、より繊細なコントロールが可能になるという事だと思います。
 手は人間の意図に最も忠実に従い動かす事の出来る部位であり、道具というのはそのほとんどを手で操作します。道具を手で操る事で誰でもある程度同じ事が出来ます。しかし、誰でも出来るというレベルのものから一旦、質の追求へとその方向性が変わると、ある程度の熟練を積んだ者にしか成し得ない領域というものが存在します。
 芸術家達の独創的な表現や匠といわれる職人達の絶妙な技に見られるように、手を使うあらゆる分野において熟練されたレベルにある人達に共通しているのは、それらは既に単なる手作業ではないという事です。私が誤って垣根の苗木を刈ってしまった失敗は、誰でも出来るというレベルの技量で熟練者の領域に踏み込んでしまったからだと言えます。では、その領域との境界線にあるものは何かと言えば、前述したように体幹から手、手から道具までが一体化された感覚に他なりません。
 最初は誰でも手だけを使おうとします。特に便利な道具で溢れている現代に生きる我々程その度合いが強くなっているのかも知れません。人間は、地球上で最も高度な運動機能を果たせる可能性を持った動物として進化ながらも、皮肉なことに最も身体を活用しない動物となってしまったような印象を受けます。これは、人間の在り方の一つの見方として非常に不自然だと言えます。逆に他の動物は、人間程手を上手く使えない事によって自分の身体を実に効率的に機能させています。だから、特定の動物の動きをイメージさせ、それをお手本にするエクササイズも多く存在します。そして、武術の技を稽古するという事には身体を使って生きるという事でより自然な人間の在り方に回帰しようとする方向性があるという点で現代における一つの意義を見出すことが出来ます。
 ところで武術で使う道具とは言うまでもなく武器です。武器を操作するときの教えとして「武器は手の延長である」という言葉があります。これは先ず、「手は体幹の延長である。」と補足出来ます。武器術と素手武術、カテゴリーとしてのフィールドは違っても、稽古するときの方向性としては、武器を使う事で体幹から手までの一体感覚が練られ、また素手武術にある所作を稽古することが既に武器術の基礎をある程度作っている、というのが理想だと考えます。


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ザ・芝刈り 前編 [内弟子日記]

内弟子としての生活の中で、主に稽古以外にやっていた事は庭仕事でした。その中でももっとも思い出深いのが芝刈りです。時津先生の家の広い庭は芝生で覆われているので定期的な芝刈りが欠かせません。特に寒い冬が終わり、豊富な太陽の光と雨をもたらす春になると、植物は一斉に地上にそのエネルギーを発散させます。芝生も週に一度は刈らないと追いつきません。当時使用していた機械は、160センチほどのバー状の先に刃がついたタイプのもので刈払機(かりはらいき)というもの。歯の部分は、合金の鋸ではなく、ナイロン製の紐状になったもので、高速回転により鞭でひっぱたく原理で草を刈っていきます。反対側にエンジンとハンドルが付いていてベルトを肩にかけてハンドルを操作します。
最初、先生に手本を見せてもらいます。見る見るうちに芝生がきれいに刈られていく様を、私はとても面白そうだと思いながら見ていました。機械の操作自体はそれ程難しくありません。ハンドルについているボタン式のスロットルで回転を調節し、バーを左右に振りながら半円を描くようにして刈っていけばいいのです。最初にやった時は何も考えずただ面白がって気楽に刈っていましたが、一通り刈り終わり先生に報告するとその出来があまりにも悪く不合格でした。よく見ると確かに芝の表面がでこぼこして斑があり、前よりも醜くなっています。「これは稽古だと思ってやりなさい。手先だけで操作するから安定性を欠き、でこぼこに刈ってしまうんだ。丹田から動きそれをハンドルに伝えれば軌道が安定しきれいに刈れるんだ。さっき道場で稽古した事と同じだよ。」
それ以来、芝刈りはもうただの庭仕事ではなくなりました。今度は先生から言われた通り、丹田から動くように心がけながら丁寧に刈っていきます。もともと器用な方ではないので、前回よりも大分神経を使い疲れました。そして先生に報告すると、今度はあまりにも時間がかかり過ぎていてまた不合格でした。気がつくと四時間近くかかっていました。「この位の広さなら二時間位で終わらせるはずだ。もっと効率性を追求しなければ駄目だ。どんなにいいものでも時間がかかりすぎるのは良くない。」
四時間もかけて綺麗に刈ったのに芝生ときたらお構いなしに生い茂りあっという間に三度目の挑戦の日がやってきました。しかし、今度は効率性を求めなければなりません。ペース配分に気を配り、丁寧に半円を繰り返しながら芝生の表面を滑らせていきます。ようやく制限時間内に終われそうな見通しがついてきた時、油断したのでしょうか、垣根の苗木の一つを誤って刈ってしまいました。三度目の正直どころか、三度目で大失敗してしまったのです。ところで、アメリカ合衆国初代大統領であるジョージワシントン子供の頃、父親の大事にしていた桜の木を斧で切り落とし、それを正直に告白したという話しは作り話だそうですが、私が誤って苗木の一つを切り落とし、正直に告白するどころか、「沢山ある苗木のうちの一つくらい大したは事ないだろう」と高を括り黙っていて先生に叱られたのは本当の話しです。
先生には直ぐに見つかり、「あれは、苦労して一つ一つ手で植えた苗木なんだよ、細心の注意を払いなさい。細かいコントロールがまだ出来ないのだったら狭い所は鎌を使って手で刈りなさい。」と叱られました。それ以来、反省し刈払機と鎌を使い分けるやり方に定着しました。

つづく


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創意工夫 [内弟子日記]

 時津先生は更に上に登ろう、次の次元へ進もうとする上昇の意識で常に満たされています。まるでそれこそが生きる証であるかのように。武道家にとっては一見、極当たり前の事のようですが現実にはそれを実践するのはなかなか難しいことです。常に上昇していこうという意識で生きるという事には、常に創意工夫する姿勢が伴います。
 先生は、組み手稽古でもただ私の相手をする為だけでなく自分の動きや技を常に試されているようでした。私は、いつも必死だったのでたまに自分の攻撃が当たる事があるとつい「やった!」と思ってしまうのですが、先生からすると勝ち負けだけに集中して臨んでいる訳ではなく、問題にしているものは別にあったのでいつも何事もなかったように至って冷静でした。稽古や鍛錬の仕方も常に考えています。いろいろな道具も鍛錬用として使っていますが、それらのほとんどは市販されているトレーニング用の道具ではなく、もともとは何か別の用途としての道具だったものを自分の鍛錬の目的に合わせて改造しているものです。
 ある日、蹴りの稽古をする為だといって、タイヤを半分に切って柱に釘で打ちつけようという事になりました。半分に切るといってもタイヤのゴムの中には小さなワイヤーがいっぱい張り巡らされておりかなり苦労しましたが、先生と交代しながら鋸で切り道場内に設置されてある木の柱に打ち付けました。
 その日以来、私が庭で草取りをしていると道場からドスン、ドスン、ドスン、と先生がそのタイヤを蹴っている音が聞こえてきます。一時間ほどして「押領司君」とお呼びがかかり組み手稽古が始まります。先生は、蹴り技でどんどん攻めてきます。明らかに蹴り技を試されているのが分かったので、私は容易に予測することが出来、思ったよりもよく防御する事ができました。しばらくして組み手は終わり、私はまた草取りに戻り、先生は再びタイヤを蹴り始めました。ドスン、ドスン、ドスン、まるで機械のようにひたすら同じリズムで繰り返されるその音は、重く低く草取りをしている私の所まで響いてきます。
 そしてまた一時間位経過し、「押領司君」の声で私は道場へ。再度組み手稽古です。するとどうでしょう。先生は、依然として蹴りでどんどん攻めてくるのですが、一時間前に防げた蹴りを今度は全く防げなくなっているではありませんか!先生が蹴りで来るのは分かっているのにも関わらず、です。これにはびっくりしました。一体どういう事でしょうか?つまり草取りが私の蹴りを防ぐ力を奪ったのです、、、いや、言うまでもなく先生の蹴り方が改良されたのでした。最初の組み手で先生は、恐らく私が蹴りに反応する間や角度を確認し、そこから問題点を明確にし、その後の一人稽古でそれらに取り組んでいたに違いありません。私が何の問題意識もなく、雑草を一本一本抜きながら、「よし、根っこまできれいに抜けたぞ!あー途中で切れちゃった!」と一喜一憂している間に、聞こえてきたあのドスン、ドスン、ドスン、という一つ一つの音の数だけ先生は、蹴りに対する創意工夫を積み重ね、結果的に全く次元の違う蹴りの感覚を覚えていたのでした。
 このように道場の中での武道に直接関係する技術的な事から、日常生活のあらゆる場面において常に思索と創意工夫をする先生の姿からは確かに多くの学ぶべき事がありました。


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組み手研究 [内弟子日記]

 時津先生との組み手稽古は、毎回約一時間ぶっ通しで続きます。その間休憩はありません。時折、先生の蹴りが鳩尾に入り、悶絶して床をのた打ち回っている間が唯一の休憩時間でした。それでも、「まだ悶絶タイムは終わらんのか?」と言わんばかりに目の前で待っておられるので、いつまでも痛がっている訳にはいきません。先生の足は、バレリーナのように床に爪先で直に立つことが出来るほど強いので、蹴られるとまるで鉄下駄か何かが腹にめり込んだような感触があります。そんな蹴りでも鳩尾にもらい悶絶している間は休めるので、苦しみながらも心のどこかで「有難い」と思うようになっていました。
 この様な組み手稽古では、1ラウンド4,5分の間に全力を投入してエネルギーを使い果たす様なやり方ではとても乗り切る事は出来ません。そうかと言って、気を抜けば容赦なく突きや蹴りが飛んでくる状況の中で、ただ単純にペース配分すればいいという訳にもいきません。「慣れるしかない」と結論付けてはなんの解決にもなりません。慣れるしかないという認識で取り組むという事は、まるで進めるかどうか分からない道を一か八かで進むような漠然としたものです。この状況を出来るだけ確実に乗り越えていこうとするには、そこにある問題点を出来るだけ明確に把握し、徹底的にそれに取り組むという具体的な働きかけの意識が必要となります。
 そんな自覚が生まれ、日増しに負担になってきつつあった先生との組み手稽古への自分なりの課題を見つけようとしていたある日、レバノンから一人の弟子が休暇を利用して稽古しにやってきました。この様に、よく先生の家には個人や団体で弟子達が泊りがけで短期間の稽古にやってきます。その間、私は彼らと稽古するし、普段先生と二人っきりの稽古にも彼らが加わります。私にとっては先生の組み手を客観的に観察できる絶好の機会となります。日本で先生が他の人と組み手をしているのを見ていたときは、ただただ驚くのみでしたが、改めて先生の組み手を観察する今、もはやただ「すっげぇーなあー」と思うだけでは許されません。自分と何が違うのか一つでも多くのことを学ばなければなりませんでした。その弟子も、約20分程の間に大分へとへとに追い詰められており、まるでいつもの自分の姿を外から見ているようでした。そこで出来るだけ私自身とその弟子の動きとを重ね合わせた上で、先生の組み手を観察してみました。
 その時の先生の組み手から私が拾った事は次の三点でした。1、見切りが長い。相手の動きや技に寸前まで反応しない。だから大抵のフェイントには動じない。むしろ墓穴を掘る様に相手が自分でしかけた動きによって自ら虚を生む方が多い。先生の方は、そこで動じていないのでその虚をいつでもつける状態にある。2、どの間合いからでも全体が見えている。遠めの間合いでも、近めの間合いでも、相手のガード、もしくは防御の意識が薄い所に的確に入っていく。3、虚が出にくい。極めようとして出した攻撃技や、受けようとして動いた後、それが成功しなかった場合、その直後の瞬間に普通は乱れ虚が出るものだが先生にはそれが出ない。
 以上ですが、これらはもちろん表面的な現象に過ぎません。手品を見せる側と見せられる側の間には、そこに展開される現象に対する認識がまるで異なっているように、表面的な事からなるべく勝負を支配する事の出来る側のからくりを解明しなければ同じ現象を産むことは当然できません。それは何も先生が手品の種明かしをしてくれない訳ではなく、むしろ先生は自分が出来ることに関しては、その全てを皆に等しく開示してくれます。だからその種は、実際至るところで再三明かされているのですが、武道の技は言葉で説明され、それを頭で理解した段階では本当の意味での理解にはなり得ないし、先生が私の身体に乗り移りその感覚を教示してくれる訳ではないので、最後はやはり自ら解明する努力が必要になります。
 また、こんな事もありました。ある日、いつもの様に先生と組み手をしている時の出来事でした。いつもの様に無我夢中で先生に対峙し、息も絶え絶えになりながら必死の思いで先生の懐へ飛び込もうとしていた時、先生からおもむろに「待て」の合図がかかりました。何事かと思っていると窓の外を見なさいというジェスチャー。そちらを見ると、なんともきれいで大きな夕日が地平線の彼方へ沈んでいくところでした。先生と私は約五秒間ほど無言でその夕日を眺め、また何事もなかったように先生の怒涛の攻撃が再開されました。
 組み手稽古にある独特の重厚な空気の中にふっと爽やかな軽い空気が差し込んできたような、そんな間でした。先生の組み手における精神状態、意識の使い方、目の付け所、それらについて考えさせられるちょっとしたハプニングでした。先生は、確かに私に対する意識の集中は緩めていませんでした。それは、目の前にいる私がはっきりと感じていました。私は私なりに、常に虎視眈々と先生の隙を窺っていたのです。そんな私の目の前で、先生の注意が他へいっているのが分かったなら直ちに私は飛び込んでいたはずです。それにも関わらず、自然の美しさに感応する余裕さえ持ちながら私と組み手が出来る先生とのレベルの差に改めて愕然としましたが、この時の状況をイメージし、理想的な組み手感覚を探す時にとても参考になりました。


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組み手修行 その三 -試練の向こう側- [内弟子日記]

 武道を志す内弟子として、このような試練を乗り越える為には本質的な部分で強くなるしかありません。そもそもそれが武道の直接的な目標であり、私がここにいる理由です。
 そう「強くなるしかない」のです。
どんなに経験や知識が豊富になり人からある程度の評価を得、それなりの箔が付いたとしても現実に次から次へと飛んでくる先生の猛烈な突きや蹴りに対処出来るようにならなければ、私自身の内弟子修行は挫折してしまいます。
 「強くなるしかない」
ところが、いざ実際に壁にぶつかってみると、何かと現状から逃げようとする心理が働き、目を反らしている自分がいました。組み手稽古は毎日約1時間ぶっ通しで続きます。途中に休憩など一切ありません。唯一息が吐けるのは先生の攻撃を受け、床にうずくまって悶絶している間だけです。そんな組み手稽古を、私はいつも終わりがくるまでただひたすら耐えているだけでした。視覚的には先生と向き合い現状を捉えていても、心の目は背けていたのです。
 「強くなるしかない」
その思いばかりが空回りしてこの現状から抜け出す為には具体的にどうすればいいのか依然として全く分からずにいました。いっそのことつらいと思う感覚が麻痺しないものかとただ漠然と願うのみでした。当然ながらこのようにただ漠然と何かを待つような姿勢で状況がよくなるはずもありません。庭仕事をしているときも、ワインを飲んで酔っ払っている時も、床に就いてからも組み手稽古の事が頭から離れず精神的なストレスはより一層深刻なものになっていきました。
 「強くなるしかない」
その為にはやはりこの組み手稽古と真正面から向き合い、その中で何らかの答えを見つけなければなりません。それしかないのです。日に日に大きくなるストレスが飽和状態に達した時、ようやく私はその覚悟をすることが出来ました。それからは依然として投げ飛ばされ叩きつけられながらも、次こそはやられないようにと気持ちだけは向かっていきました。
 そうやって心の目を開いて向かっていく姿勢をもつようになってから、しばらくしてある変化が訪れました。私なりの一つの答えを見つけたのです。その答えとは、「自分の身を委ねる事の出来る揺るぎない一拳」でした。それはたとえ相手が先生であろうとも必ずきめる事のできる一拳です。間と拍子の織り成す勝負空間の中で、私にとってのある特別な状況になった時には必ずきまる、そんな一拳です。それは傍目からは決して分からない、ふっとした瞬間に生まれた感覚的な変化がきっかけでした。今振り返ってみると、このような厳しい稽古による濃密なエネルギーのやり取りの中でのみ見つける事のできた感覚だったのかも知れません。
 「ある一つの状況においては、たとえ相手が先生であろうと他の誰であろうと必ずきめる。」当然先生はそういう状況を簡単に作らせてくれるはずもなく、相変わらず防戦一方になることには変わりないのですが、私の中では「必ずきめる事のできる一拳」を身につけた事によって、それが精神的な拠り所となりそれまでとは違う次元で先生に対する事ができるようになりました。それからというもの、分厚い雨雲がすーっと消え失せ太陽の光で覆われたように気持ちが軽くなり、稽古に対して明るい展望を持ち前向きに取り組めるようになったのです。内弟子の間にこのような経験を三度しました。
 「強くなるしかない」
当然ながらその意味は、深く深く変化していきながらも、それは未だにそしてこれからも武道を志す者の揺ぎ無い指標として私の心と身体を引っ張り続けています。この試練は、私にとってその事を強烈に再認識させるものとなりました。


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